2019年3月4日に放送される「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~」で、

「世界ナゼそこに日本人【偉人伝説】ドイツで難病から人々を救った伝説の日本人医師」が紹介されます。


この日本人医師ですが、

肥沼信次です。


ここでは、肥沼信次の読み方やプロフィール。

どのような偉人なのか?

家族や結婚や子供について、

肥沼信次を紹介している本についてご紹介します。



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肥沼信次の読み方やプロフィールは?

肥沼信次ですが、肥沼の読み方を調べている方が多いようです。

肥沼は、こえぬまと読みます。

プロフィール


名前:肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)

生年月日:1908年10月9日

没年月日:1946年3月8日

出身地:東京都八王子町(現在は八王子市)

肥沼信次はどんな人?

肥沼信次は、ドイツで難病の人々を救った伝説の日本人医師と言われていますが、

1989年まで日本では全く知られていない人物でした。


なぜなら、肥沼信次が医師として活動したヴリーツェンは、東ドイツだったからです。

東西が冷戦状態で、鉄のカーテンが引かれていたため、

東ドイツの情報は、日本には入ってこなかったのです。


ところが、1989年、ベルリンの壁の崩壊で、状況は変わりました。

その年の朝日新聞の尋ね人の欄に肥沼医師の家族を探す記事が載ったのです。

この記事は、ヴリーツェンの人々が載せたものでした。

これにより、肥沼信次のドイツでの活動が明らかになりました。


昭和12年(1937年)、当時27歳の肥沼信次。

日本医科大学、東京帝国大学医学部を卒業し、当時、最先端の技術を誇ったドイツで研究をすることになります。

ドイツに渡った肥沼は、ベルリン大学で医療の研究に没頭しました。

しかし、第二次世界大戦が勃発。

1945年には、ドイツでの戦局は悪化し、ソ連軍がドイツに攻めてきて、ベルリンは陥落寸前に。

ベルリンにいた日本人は、全員に避難命令が出されます。

当然、日本大使館から肥沼にも声がかかりますが、

帰国の当日、集合場所に肥沼の姿はありませんでした。

肥沼は、ドイツに残る決心をしたのです。


そして、肥沼が向かったのは、ヴリーツェンという小さな町。

その町は、伝染病地域に指定されるほど発疹チフスが猛威を振るっていました。

1945年9月、肥沼は、ヴリーツェン伝染病医療センター長に就任。

だが、肥沼が伝染病棟に入ると、想像を絶するような光景が広がっていた。

発疹チフスを患った人々の状態は、あまりに酷く、

看護婦ですら、病棟に入るのをためらうほどでした。


しかし、肥沼は、何のためらいもなく病棟に入り、どんな患者にも優しく笑顔で接します。

医療センターには、薬や医療器具、食料もありませんでしたが、

工夫をこらして、衛生状態の改善に務めました。

肥沼の医療活動は、センター内にとどまらず、往診をしたり、自宅も診療所を設けます。

ほとんど睡眠をとらず働いていたようです。


ある日、肥沼が往診に出かけた時、薬がないと助からない少女がいました。

その母親がいうには、以前、夫が働いていたソ連軍の野戦病院になら薬があるかもしれないと肥沼につげます。

肥沼は、数日かけてそこにたどり着きますが、病院の人は薬は渡せないと言われます。

しかし、必死にお願いする肥沼の願いが届き、薬を貰えることになります。

肥沼は、抱えられる限りの薬をもって、ヴリーツェンに戻ります。

少女はその薬により、死の淵からよみがえり、助かります。

母親は、治療費について尋ねると、肥沼は治療費のことを口にすることはありませんでした。

その少女は、のちに薬剤師になるそうです。


少女の命を救うことができ、喜んでいた肥沼でしたが、不眠不休で働いていたため、

自信も病魔に襲われていきます。

痩せこけて、青白い顔をしながらも、肥沼は、患者にたいし笑顔で治療を続けます。

しかし、医療センターの環境は相変わらず悪く、

食料も乏しい状況でした。

そんな時、命を助けた少女の母親から食料が届きます。

治療費を受け取らなかった母親からの精一杯のお礼だったのです。

患者たちは喜び、肥沼も患者の笑顔をみると、

さらに治療への想いを強くしていきました。


しかし、肥沼はついにチフスに侵されるようになります。

死ぬ間際に肥沼は、

「桜がみたい」

といって息をひきとったそうです。

僅か37歳の人生でした。



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肥沼信次の家族や子孫は?

肥沼信次の家族について、ご紹介します。


父親の名前は、肥沼梅三郎

母親は、ハツ


父親は、八王子で開業医をしていました。

肥沼信次は、7人兄弟の長男でした。

その中の弟の栄治さんは、

1994年にヴリーツェンに訪れ、

当時の兄を知る人物たちと出会いました。


そして、兄の最後の言葉「桜がみたい」をしった栄治さんは、

ヴリーツェンに100本の桜を送りました。


次に肥沼信次は結婚や子供についてですが、

どうやら結婚はしていないようです。

なので、子供もいません。


ドイツで恋愛などがなかったのか気になるところですが、

一人気になる女性がいます。

シュナイダ―夫人です。


シュナイダ―夫人は、未亡人で5歳になる娘もいました。

実は、肥沼がドイツに残った理由が、このシュナイダ―夫人とその娘の存在があったからということです。

肥沼は、親子に同情し、2人を守ろうとして、一緒に行動したと言われています。

ただこのシュナイダ―夫人との関係が恋愛関係なのかどうか、

定かではないそうです。

肥沼信次の本は?

肥沼信次をもっと詳しく知りたいという方に、本もご紹介します。

ヴリーツェンに散る桜 ドイツで伝染病と闘った日本人医師肥沼信次の物語 [ なかむらちゑ ]

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海を渡った日本人(第1巻) 肥沼信次 [ 加古里子 ]

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日独を繋ぐ“肥沼信次”の精神と国際交流 八王子の野口英世ドクター・コエヌマを知っていますか 人と歴史

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感想(0件)

このような本が出版されています。

まとめ

いかがでしたでしょうか。


2019年3月4日に放送される「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~」では、肥沼信次が紹介されます。


1937年にドイツに渡り、戦争に巻き込まれますが、

帰国を拒否。

発疹チフスが猛威をふるうヴリーツェン市の伝染病医療センターに医師として着任し。

半年間にわたる献身的な治療を行い、多くの患者を救いますが、

自らも発疹チフスを患い、1946年に「桜がみたい」という言葉を残し亡くなりました。

家族は、父親も開業医で、兄弟は7人。

信次は長男でした。

後に弟の栄治さんがヴリーツェンを訪れています。


結婚はしておらず、子供はいません。

しかし、ドイツに残った理由が、未亡人のシュナイダ―夫人に同情して、守らなければならないと思ったからということです。

恋愛関係だったのかは定かではないということです。



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